プロフィール

Author:扇智史
リンク/アンリンクはフリーです。
ご連絡はonly.gizmo*gmail.comへ(アステリスクを小文字アットマークに変換してください)お仕事の連絡大歓迎です。それ以外の見知らぬ方からのメールに対しては基本的に返信等できかねますのでご了承ください。

最近の記事

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

余生
何事モ十年デス。アトハ、余生ト言ツテヨイ。(太宰治『右大臣実朝』)
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

バレンタイン短編「逆様のチョコレートフォンデュ」
そろそろバレンタインということで、最近書いた掌編をお送りします。
拙著「永遠のフローズンチョコレート」の主人公たちの、数年後の一コマです。
読者のかたはもちろんのこと、未読のかたにもなんとなくお楽しみいただければ幸いです。

なお、多少グロテスクな描写がございますので、ご注意ください。


よろしければ、下の[READ MORE]をクリックして、お楽しみくださいませ。




「逆様のチョコレートフォンデュ」


 真っ赤なリンゴが、青果店の軒先を飾っている。総じて色彩の薄い北筋の商店街にあって、そのリンゴばかりが生命力をたぎらせているように見えた。
 旬のみずみずしい輝きを見つめながら、あたしは食べるはずだった焼きリンゴのことを思い出している。
 冷え冷えとした二月の昼前の空気にまとわりつかれ、皮膚は氷になってしまったみたいで、立ち止まってしまうと動くのも億劫になる。コートのポケットに両手を突っ込み、マフラーに顔を半ばうずもれさせて、それでも守りきれない両目の周りは血も通わなくなったかと思うほどに冷え切っている。
 あたりの風景も負けじと寒々しい。国道とメインストリートに挟まれたこの商店街は、大半の建物がシャッターを閉め、人通りもまばら。頭上を囲うアーケードは長年の風雨に汚れ、陽射しをほとんど通さない。真冬ともなれば日照もひどく弱々しく、何もかもが墓地じみた灰色にくすんでいる。
 数少ない営業店舗のひとつであるこの青果店にしても、安っぽい皿に手書きの値札を貼り付けて、売る気があるのかないのか分からない。売り物自体は新鮮で、近くの大手スーパーにも負けるものではなさそうだけれど、今日びこれでは押し出しも弱すぎるだろう。
 レビューサイトの写真で見たカフェの焼きリンゴは、じっくり焼かれた黄金色の皮も、中に詰められたラムレーズンの深紫も、添えられたアイスのとろりとした質感も、何もかも見事だった。食器やテーブルも品が良く、そうした彩りがメニューをおいしく見せるのに一役買っていた。見ているだけで喉が鳴り、空腹が加速して、舌の上で味を想像するだけで幸せな心地になれた。
 基樹が「行きたくない」だの「今日は一日引きこもる」だのとわがままを言わなければ、昨日のうちに濃厚な蜜の味をとっくりと堪能できていたはずだったのに。
「おひとつ、いかがです?」
 店の奥から呼びかけられた。ふくよかな体格の中年女性が、人の良さそうな微笑みを顔にまとわせてあたしを見ている。こんな店の番をしているほどだ、そうあくせく働かなくとも食うには困らない程度の蓄えはあるのだろう。平和そのものの面差しを向けられ、あたしはひそかに頬をゆがめた。
「……いえ」
「おいしいですよ?」
 小声の拒絶はまるでなかったものにされて、いっそう身を乗り出してくる。
「もしなんでしたら、味見していきます?」
「いえ、おなかすいてないですし」
 頭を下げて、あたしはきびすを返して足早に店の前を去る。興味を見せたのはあたしの方だから、幾分ばつが悪い。とはいえ食欲は本当にないし、そう自罰的な気分になる必要はないはずだ。
 ひどくちぐはぐな気持ちにさいなまれて、あたしは薄暗い通りからさらに狭い路地に踏み込む。人ひとりしか通れなさそうな道を歩み抜け、広い国道に出た。
 つかのま、目のくらむような心地がする。冬の景色は相変わらず灰色がかっているけれど、走り抜けていくワゴンやパチンコ屋の電飾の色はやけにどぎつく感じられる。吹き付ける風はひとしお寒く、あたしは肩を縮めて歩道を東に向かう。
 普段は自転車で大学までの道のりを飛ばしていくだけなので、こうして徒歩の速さで路上を眺めるのは珍しい。うっすらと都市のにおいのする乾いた空気が、ゆっくりと耳元をなでる。通り過ぎていた店がふと目に付いたり、道行く大人や子供の顔に注意が向いたり、いつもは気にならないものが気になったりする。
 ガードレールの下に押し込まれるように、猫の死骸があった。
 割かれた腹から内臓を取り出されて路上に晒されている。口から舌がえらく長く飛び出ているのは、きっと手ずから引きずり出したのだろう。肉球のひとつひとつにまで切れ目を入れているのは、意図が読めない分いっそう偏執的に見える。茶色の縞のある尻尾が、だらりと車道にはみ出ていた。
 ひどいわねえ、と横から知らない婦人が声をかけてきた。一応警察に通報したけど、保健所とかの方がよかったかしら、それにしても残酷なことするわねえ、と並べ立てる彼女の言葉に適当に相づちを打つ。大丈夫、と訊ねられたのにも軽くうなずいておいた。
 あたしが歩き出しても、女性はまだ心配そうなそぶりをしていた。よほどあたしの顔色が悪かったのかもしれないが、それは猫のせいではない。人間を刻んだこともあるのに、今さら猫の惨殺死体にショックを受けたりはしない。
 血色がよくないのは、寒さのせいだったり、朝から調子が悪かったり、様々な要因のせいだ。
 とはいえ、このまま国道を歩き続けるのも験が悪い。薄汚れた雑居ビルのある角で曲がって、路地に潜り込むようにして北筋の商店街に戻ってくる。
 水のにおいが鼻をつく。どこからか流出した排水が、見えない下水を流れ続けているのだ。
 立ち並ぶシャッターの半分くらいには、テナントを募集する看板が貼られている。残りの半分は、年季の入った看板もそのままに、時が過ぎゆくのもお構いなしの静寂に身を任せている。
 そんなシャッターの一枚に、にこやかに遊ぶ子供たちの絵が描かれていた。あたしは足を止めて、その幸福な情景にしばし向き合う。町内の人か、あるいは店の主人が自ら筆を執ったのだろう、ペンキで一気に塗りたくったと思われるその絵は、フォルムも色使いも素朴で明朗、この町並みにはまるで似つかわしくない。なにせ子供の姿など、現実の路上にはどこにも見当たらないのだ。原色のウォールアートと灰色の路地、という取り合わせは、理想を求めて真逆の状況にたどり着く薄ら寒さを体現していた。
 二階部分、”薬局”の”楽”の部分がはがれた看板の上の窓は、カーテンが閉められて内側の様子はうかがえない。こうした店舗は民家も兼ねていて、今でもいくつかの家には人が住んでいる。儲からないから店は閉めるのだが、かといって住み慣れた家を他人に渡すのも惜しく、家を売らねばならないほど金に困っているわけでもない。家の持ち主の多くはそうした有閑老人なのだ、と、現にこの街で育った学友のひとりから聞いたことがある。
 シャッター通りの寂寥は、人生を老いるまで逃げ切り、リタイアした人々の余裕と表裏一体だ。これらの店舗がふたたび戸を開け、あるいは解体されて日当たりのいい町並みになるのは、年を重ねたあたしたちがあくせく働き、かつかつの日々を送るようになったころだろう。
 十数年後のあたしと基樹を想像しかけて、軽くめまいを覚える。あたたかな部屋で、息子や娘と語らい、寄り添いあって、貧しいながらも満ち足りたひととき。解剖学的形態を無視して描かれた子どもたちと、不確かな空想が重なり合った、異形の世界だった。
 遠く、不確かで、ありもしないかに感じられた未来に、気づけば手が届きそうなのだった。そのありようも、手ざわりも、思っていたのよりもずっといびつにねじ曲がっている。
「こんなに生きるつもりもなかった」基樹の低いつぶやきが、耳の奥に蘇る。「俺以外の誰もが俺より大切にされればいい」「俺以外の誰だって俺よりましだ」近頃の彼はしばしば憂鬱にとらわれては、ベッドの上でうずくまったりしている。
 病気と見なして医者に連れて行くべきか、あたしまで傷つける自虐にはつきあっていられないと放り出すか。多少迷いながらも、あたしは彼を許して、彼のそばを離れられないでいる。甘やかして、決断を遅らせて。
 簡単に叶えられるはずの彼の望みを、あたしはずっと遅延したまま、こうして未来に飲み込まれそうになっている。
 何かが転がる小さな音が、あたしを空想から引き戻す。
 音の源らしき脇道をのぞき込むと、しなやかな体躯の三毛猫が、発泡酒の空き瓶のそばで身を屈めている。住人にも放置された家屋の隙間は、誰も掃除しないまま年経たゴミが堆積している。猫は、そのどぶ川めいた世界の間隙に、我が物顔に居座っているのだった。
 彼女は笑って、すたすたと奥の方に歩き去っていく。縞模様のある尻尾をぴんと立てた身のこなしに惹かれて、あたしは猫の背中を追いかける。
 狭い隙間を通り抜けると、大通りに出た。
 駅から東西に延びるこのメインストリートが、人々の生活の中心だ。昼前でも買い物客が行き来し、セールの看板を出したスーパーの前には大量の自転車が止まっている。どこかのスピーカーから、最新のアイドルソングが流れてくる。猫は見失ってしまった。
 ふたたび歩き出したあたしの腰で、スマートフォンが震動する。スカートのポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認し、眉をひそめる。基樹からだ。歩きながら、あたしは電話に出て、
「もしもし……今? 駅筋。……違うよ。ただの買い物。……怒ってはいるけど……平気だって。すぐに帰るし。何か欲しいものある? ……分かった。……それはまた今度。……そんなに急がないよ。それに、今度はまた別のとこに……うん、そう。……いいじゃん。……違うって、疑り深いな……わがまま言うな。……はいはい。……じゃ」
 通話を終えて、ふとスマートフォンの画面を見たあたしは、うっかり笑ってしまった。写真を撮ったのと同じ場所に、自分が立っていることに気づいたからだ。
 めったに人の来ない、こじんまりしたレンタルスペース。ベージュ基調のシックな店構えは街並みに溶け込んでいて、ドアの上に掛けられたレモン色の飾り看板だけがおだやかに自己主張している。
 しかし写真の中のその場所は、イチゴやベリーを模した派手なイルミネーションに飾り立てられ、賑々しくも不穏な華やぎを醸し出している。その危うさの正体はドアの向こう、店の奥から今にもあふれ出てきそうな、濃厚な褐色をしたどろどろの液体だ。ドアを開ければ、それはまたたく間に流れ出て、通りを、商店街を、街一帯を覆い尽くす。
 かつて一週間だけ”展示”された、基樹の作品だった。
 基樹にインスタレーションを薦めたのは、教養科目でメディア論の講義をしていた教授だという。レポートの着眼の良さや、実習で撮影した写真に個性を見いだしたらしい。基樹の方も教授のゼミに顔を出したりして、珍しく積極的に行動していた。
 教授のつてでスペースを借り受けて、自由に演出できる空間を与えられた基樹は、ディスプレイ上に非日常空間を生み出す方向性を選んだ。写真に残っているイルミネーションも、褐色の液体も、もちろんCG。スマホやタブレットでしか見られない現実を、彼は描こうとしたのだろう。
 作品は、教授も気に入ったようだった、と基樹から聞いた。彼は今もゼミや研究室に顔を出しているようで、教授のコネで就職できるかもしれない、と口にしたこともある。少なくともそこに、彼の未来はのぞけている。
 あたしはシャッターを切って、レンタルスペースの外観を写真に収める。清潔なだけで目を引かない装飾も、店内に展示されている愚にもつかないファインアートも、ディスプレイに表示されて死んだように静止する。
 スマートフォンをポケットにしまって、歩き出す。振り返れば、目的の場所はすぐそば。
 フランチャイズのドラッグストアだ。と言っても郊外や駅前の大規模店舗とは違い、小さな店内に商品棚をきつきつに詰め込んで、そこかしこに手作りのポップを掲げた安っぽい店だった。ノーブランドの商品を激安で売っていて、それが近所の学生にとってはありがたい。
 道にはみ出した山積みのティッシュロールをかき分けて店内に入ると、知り合いのショートヘアの店員と目が合った。
「いらっしゃーい」
 エプロンをつけた内村さんが無愛想に挨拶してくる。彼女とは一年の時に語学で一緒になってから、なんとなくしゃべる程度の仲。実家は通り一本向こう、つまり北筋の商店街。シャッター通りの実状を教えてくれたというのが、彼女だ。この店の主人とも知り合いで、ちょくちょく店番を頼まれているらしい。
「なんか今日も機嫌悪い?」
 内村さんが問いかけてくる。棚から目を離して振り返り、あたしはちょっと眉をひそめ、
「……そんな風に見える?」
「ちょっとね。まだ彼氏とケンカ中?」
 昨日のあたしは、焼きリンゴの件で基樹にすっぽかされてすこぶる腹を立てていた。その名残があるように、内村さんには見えているのだろう。
「それは大丈夫なんだけど。さっきさ、猫の死体見ちゃって」
「うわ、そりゃへこむわ」
「めっちゃグロかった。こう、だらーんって」
「解説しなくていいから。ほんと、ひどい奴いるもんだねえ」
 あからさまに顔をしかめる内村さんに、そうだね、とうなずきつつ、あたしは目当ての商品をぱっぱと手にする。
 レジで無愛想に腰を下ろしたまま、内村さんがバーコードを通す。片手ですいすいと手際よくリーダーを通す仕草は、堂に入ったものだ。
「ま、さっさと仲直りできてよかったじゃない。ほら、あれも近いしさ」
 店の外へと目をやって、忌々しげに内村さんはこぼす。彼女の視線の先には、バレンタインの宣伝をするケーキ屋のブラックボードがある。星形とハート型の装飾を散りばめて、精一杯の手書き文字で愛情を演出している。ついこないだまでクリスマスを祝っていたはずで、時の移り変わりは無情なものだ。
 そういえば、まだ今年のチョコを決めていなかった。いいかげんに手作りを卒業してもいいかと思っていたけれど、昨日のことがあるし、手を抜くとまた基樹が「もう俺に飽きたのか」などと拗ねてしまいそうだ。とはいえ気合いを入れたところで「めんどくさいことするよな」と醒めた態度を取られるだけで、喜ばれもしないのは分かっている。
 内村さんはどうするんだろう、と訊ねかけて、口をつぐむ。しごく不愉快げに顔に皺を作っている彼女は、そもそも渡す宛てがないはずだ、と思い出した。
 あたしは財布からお札を取り出してカウンターに置きつつ、代わりに別の質問をした。
「猫を殺したの、内村さん?」
 レジを打つ彼女の手が震えた。チン、と古くさいベルの音がして、金額表示のディスプレイにやたら大きな金額が表示された。
 キーボードを見つめる彼女の顔からは、表情が消えていた。
「……ごめん、打ち間違えた。レシートのお金おかしくなってるけど、気にしないで」
 そう言って、彼女は釣り銭を渡してくる。いちおう暗算してみたが、計算は合っていた。レシートもいちおう、小銭といっしょに財布にねじ込む。
 それから内村さんは、商品をレジ袋に詰め込んでいく。あたしは無言でそれを見守るが、彼女の手際にはもはや狂いは見受けられない。
 やがて、パンパンになった袋をこちらに渡しながら、彼女は険しい目であたしをにらんで、耐えかねたように訊ねた。
「どうして?」
「血のにおいには敏感だから」
 用意しておいたあたしの答えに、内村さんはぽかんと口を開けた。それはそうだろう、そんなふうに言われてまともな切り返しが思いつくわけもない。
 内村さんの気の抜けた手からレジ袋を受け取り、あたしはそのまま彼女に背を向ける。歩き出しかけたあたしに、内村さんが言った。
「あーしはやってないよ。上條の感覚が狂ってんじゃない?」
「ほんとに?」
 カウンターに向き直ると、内村さんは落ち着いたそぶりで椅子に深く座って、こちらをじっと見ていた。嘘でごまかそうとする緊張感も、怒りの熱さえも、そこにはなかった。ただ、瞳の奥深くから染み出てくるのは、あたしを哀れむかのような、いっそ優しげでさえある光だ。
 彼女は弁明しようともしない。彼女はただ待っているのだ、あたしが勘違いを認めるのを。友達に無実の罪を着せたことへの謝罪を。
 あたしはとっさに、口を開く。のどの奥が乾いている。
「……ほんとうに?」
 バカみたいに繰り返す問いに、内村さんはもう答えなかった。自若とする彼女の前で、揺らいでいくのはあたしの方だ。頭がくらくらと、熱に当てられたみたいに左右から揺さぶられる。
「でも、内村さんさっき、”ひどい奴もいる”って。あたしは何も、猫が死んでたとしか言ってないし、殺されたなんて言わなかったのに、まるで犯人がいるのを知ってるみたいに」
 あたしの頼りない指摘に、内村さんはちょっとだけ笑った。
「おんなじようなことが何度も起きてんの、この辺。猫以外にも、野生の鳩とか、逃げ出したハムスターとか。だから、きっと同じ犯人の仕業だと思ったわけ」
 そんな話は知らなかったけれど、内村さんの言葉がごまかしには思えなかった。そう判断するにはあたしは動揺しすぎていて、自分の最前の言葉も、昔は鋭かった嗅覚も、何もかも信用できなくなっていた。
 手の中で、レジ袋がふるえる。手足の指先が冷たくなって、自分のものではないかのように思えた。あたしはよろめくように後ずさる。上條、と内村さんが呼んでいるのを無視して、そのまま店を飛び出した。
 そこはアーケードの外、真昼の白い陽射しがまともに突き刺さってくる広い路上だ。ロータリーになっている広場の花時計を挟んで、向こうに白亜の駅ビルが建っている。その建物が一瞬、あたかも遠く東欧あたりの山奥にそびえる宮殿のように見えて、行き交う人々さえも異邦人なのかと錯覚する。
 立ち尽くすあたしの前を通過していく、人と車とバイク。しだいにそれらが色彩を失い、とろけて混じり合っていく。そのうちに景色までもが溶解して、渾然とした視界はまばゆいばかりの純白に覆い尽くされる。
 冷え切った手足が、鈍く痛む腹が、かすむ視界が、いっせいに自分の体から引きはがされて、まるであたしの中身がずるりとむき出しになったような、気持ちいいような、恐ろしいような、何もかも不分明な感覚に飲み込まれて、すべてがぐずぐずにくずれていく。

 壁も床も灰色の部屋の中、灰色のテーブルを挟んで、基樹と向かい合って座っている。彼の髪は絵の具で塗りたくったように黒く、だいだい色の顔には邪気のない笑みが貼りついている。彼の周りで、彼の姿をそのまま縮めた風情の小さな子どもと、長い黒髪をぼさぼさに伸ばした赤い服の女の子がはしゃぎ回っている。
 あたしと基樹の子どもたちだ。
 一家四人、何が楽しいのか分からないままに、義務感で笑う。きれいな作り笑いの底で、あたしの心は空っぽのままだ。べとついてドロドロのものが、あたしのうつろさを糊塗している。
 基樹がテーブルの上に大皿を置く。今日の夕食だ。それは、全身のあちこちを切り開かれ、どす黒い臓器をはみ出させた猫の死骸だった。
 お前が殺したのか。
 基樹も子どもたちも、笑顔で猫にかぶりつこうとする。基樹は頭に、息子は右の前足に、そして娘は縞々の尻尾に。
 あたしは彼らを制し、右手を振り上げる。いつしかあたしは、幅広の包丁を逆手に握りしめている。手のひらに柄の形が馴染んでいるのが分かる。
 ひと思いに振り下ろすと、刃を突き立てられた猫の腹から、褐色の液体がほとばしる。無臭だった部屋に、甘い匂いが急激にあふれる。溶けたチョコレートの匂いだ。
 褐色の波の隙間に、猫のはらわたの断面が見え隠れする。肉さえも幼稚な色使いで塗りたくられて、異様なまでに赤い。あたしはフルーツの果肉を思い浮かべる。ここでは、きっと肉も果実も同じ色をして、同じように甘いのだろう。
 団欒の食卓を台無しにされて、しかし基樹も子どもたちも笑いが絶えない。あたしも笑顔を浮かべたまま、今や室内を褐色に染め上げんばかりのチョコレートの波をかき分けて、基樹の間近に迫る。
 白い包丁を目の前にしてさえ、基樹の笑顔は一点の曇りもないままだ。彼はその切っ先を受け入れるだろう、あたしはそう信じているけれど、あるいはそれもあたしの長く続く夢想にすぎないかもしれなかった。
 それでもあたしは躊躇わず、基樹の胸に包丁を振り下ろす。
 濁った血がしたたる。

 ひっ、と、か弱い悲鳴を上げて、あたしは目を覚ました。跳ね起きると、見知らぬ壁と見知らぬロッカー。ここはどこだ、と疑問を抱きつつ、あたしはひどいめまいに襲われてふたたび横になる。
 無理しないで、と、かたわらに立つ内村さんが言った。頭上の蛍光灯が、彼女の不安げな顔にいっそう濃い陰影を作っている。ここは、とあたしが問うより先に、
「うちの店のロッカールーム。とりあえず寝かしとこうと思って。起きないようなら、医者に連れてくつもりだったけど」
 内村さんが、背中を丸めて気遣わしげにあたしの額に手を当てる。ひんやりした彼女の手よりも、自分の体温の方がずっと低い。
「そんな、たいそうなことじゃない、と思う、けど」
 言いかけて、ようやく意識が形を取り戻してきた気がする。記憶を呼び起こそうとして、途中が夢に遮られて、うまくいかない。
「あたし、どうしたの?」
「店を飛び出したと思ったら、急に倒れたの。顔、真っ白だったよ。なんか変な病気とかじゃないよね?」
 問い返してくる内村さんの声には、怒りも皮肉もなく、ただ純粋にあたしを気遣ってくれているようだった。対して、一方的に彼女を糾弾したあたしの言動は、痛々しくて独善的で、思い返すだけで消え入りたくなる。
「……ごめんね、内村さん」
「気にしないで。どうせ店はヒマだし」
 しれっと内村さんは言う。胸がほっとしてくるのは、簡易ベッドの横で赤熱しているヒーターのおかげだけではなさそうだ。あたしはようやく、頬をゆるめることができた。
「別に病気じゃないの。ただ」
 ちらり、と目だけで辺りを探る。買い物袋はあたしの足下にあって、中身が雑に詰め直されたのか少しはみ出している。生理用ナプキンの白いパッケージが見えた。
 内村さんも察してくれた様子で、うなずく。
「重い方?」
「いつもはそんなじゃないんだけど」
 基樹と口げんかになったり、その余波でつい食事を抜いたりして、あまり体調がよくない時だったのがいけなかった。そのうえ、こんなに辛くなることは滅多にないので、鎮痛薬も切らしていた。
 何か欲しいものある、と内村さんが訊ねてくる。
「うちの店にも食べもんあるから、何か取ってくるよ。パンかお菓子くらいしかないけど」
「……フルーツグラノーラ」
「ぜいたくだなあ」
 苦笑しつつも内村さんは、グラノーラ入りのパンとミネラルウォーターを持ってきてくれた。あたしはやっと半身を起こして、ぱさぱさのパンを水で腹の中に流し込み、ようやく人心地付いた。
 それから、少し内村さんと話をした。学校のことや、試験のことや、バレンタインデーのこと、小動物を殺している犯人のこと。
 内村さんは、犯人を知っているという。例の絵入りシャッターの薬局の息子で、人当たりはいいけれど、平気で人を騙しては自分は悪くないとうそぶく、厄介な性格の人物らしい。ここらじゃ有名な奴で、面倒だから誰も関わりたがらないよ、と、内村さんは吐き捨てながらも、どこかわだかまりを残る顔をしていた。
「何年か前に、雛浦の方で人殺しあったじゃん。あれも、彼の仕業だって噂」
「……そうなんだ」
 ないしょの話を教えてくれる内村さんの横顔を見つめ、あたしはそう答えるしかない。それは違う、と言ったとして、本当はあたしが犯人なのだ、とは打ち明けられるはずもなかった。どうせ放っておけば何もかも迷宮入りになるだろう、ほんとうのことは薄暗がりにしまい込んで、誰にも知られないままがいい。
「悪い、辛気くさい話で」
「ううん。疑ったのはあたしの方だし」
 そう告げるあたしは、逆に胸のつかえが取れてすっきりした気分だった。たちの悪い夢のなごりを頭から追い払えたのだから。
 元気になった? と問う内村さんに、あたしは微笑んでうなずく。
 おやつを買い足し、内村さんにもう一度お礼を言って、店を出た。陽射しは高いけれども肌寒く、駅の方を見やれば、白く焼けた古いフィルムのような景色の中を人々が背中を丸めて行きすぎていく。あたしはそれに背を向けて、アーケードに覆われて薄く陰る大通りを歩いて、帰路につく。
 今年はチョコフォンデュにしよう、と思いついた。苦いチョコをいやになるほどたくさん溶かし、新鮮なイチゴや甘いバナナやとっておきのマシュマロにからませて、ふたりで一晩中食べ続けよう。きっと、チョコはいつまでもとろとろのままで、あたしたちはいつまでだってその苦い甘味でおなかを満たし続けられるはずだ。いつか、体がチョコでいっぱいになるまで。
 焼きリンゴは、そのあとでいい。あたしは軽くなった足取りで、色分けされた路上のタイルを踏んでいく。たん、たん、と、ナイフでチョコを削るみたいに、小気味良いリズムを刻みながら。

End.

スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。